世界遺産は、ふつう眺めるものだと思っている。
歩く。
見る。
写真を撮る。
歴史を感じる。
ガイドの説明を聞く。
静かに手を合わせる。
それが、たいていの世界遺産との距離感である。
でも和歌山には、少し変わった場所がある。
世界遺産の文脈で語られる湯に、いまも入浴できる。
それが、田辺市本宮町の湯の峰温泉にある「つぼ湯」だ。
もちろん、最初に正確にしておきたい。
「つぼ湯そのものが、単独で世界遺産」という言い方は、少し雑である。
世界遺産として登録されているのは、「紀伊山地の霊場と参詣道」である。その構成資産の中に、熊野本宮大社近くの湯垢離場として「湯峯温泉」が位置づけられている。
その湯の峰温泉にあり、現在も入浴できる公衆浴場として知られるのが「つぼ湯」である。
だから、この記事ではこう書く。
つぼ湯は、世界遺産の文脈で語れる、いまも入浴できる温泉である。
これだけでも十分に強い。
いや、かなり異常である。
日本ではいま、「温泉文化」をユネスコ無形文化遺産へ登録しようという動きが進んでいる。文化庁は「温泉文化」を新規提案案件として選定し、2030年ごろの審議見込みまで示している。
温泉を、単なる観光資源ではなく、日本に根づいた社会的慣習として世界に示そうとしている。
その流れの中で見ると、湯の峰温泉・つぼ湯はかなり面白い。
なぜなら、ここには温泉文化を語るための要素が、すでに重なっているからだ。
古湯。
熊野詣。
湯垢離。
世界遺産。
現役の入浴施設。
これらが一つの小さな温泉地に集まっている。
白浜だけで和歌山の温泉を語っている場合ではない。
湯の峰温泉・つぼ湯は、和歌山が「実は温泉県」だと読み直すうえで、最初に見ておきたい場所である。
湯の峰温泉は、派手な温泉街ではない
湯の峰温泉は、和歌山県田辺市本宮町にある。
熊野本宮大社に近い、山あいの小さな温泉地だ。
白浜のような海辺リゾートではない。
草津のように湯畑を中心とした巨大な温泉街でもない。
別府のように街全体から湯けむりが立ち上る温泉都市でもない。
箱根のような総合観光圏でもない。
湯の峰温泉は、もっと小さい。
谷あいに宿があり、川が流れ、湯けむりが立ち、湯筒があり、小さな温泉場の空気が残っている。
いわゆる派手な観光地ではない。
でも、そこがいい。
湯の峰温泉の強さは、温泉街の大きさではない。
歴史の層と、信仰との結びつきにある。
田辺市熊野ツーリズムビューローや熊野本宮観光協会は、湯の峰温泉を約1800年前に発見されたと伝わる古湯、日本最古級の温泉として紹介している。環境省資料でも、約1800年前に開湯した日本最古の温泉といわれる趣旨の記述が確認できる。
ここで、つい書きたくなる。
「日本最古の温泉」と。
でも、それは少し待ちたい。
温泉の世界には、「日本最古」と語られる場所がいくつもある。
道後温泉。
有馬温泉。
白浜温泉。
湯の峰温泉。
それぞれに伝承があり、記録があり、地域の誇りがある。
だから、この記事では断定しない。
日本最古級の温泉。
日本最古の温泉ともいわれる古湯。
約1800年前に発見されたと伝わる湯。
このくらいの書き方が、いちばん誠実である。
ただし、最古と断定しなくても、湯の峰の価値はまったく弱くならない。
むしろ、湯の峰温泉の本質は、古さだけではない。
ここは、熊野へ向かう人々が、身体と心を整えた場所だった。
熊野へ向かう前に、湯で身を清める
湯の峰温泉を語るとき、外してはいけない言葉がある。
湯垢離。
水で身を清めることを水垢離という。
温泉で身を清めることを、湯垢離という。
田辺市熊野ツーリズムビューローは、熊野詣では滝や川では水垢離、温泉があれば湯垢離をして、身体や精神を祓い清めながら歩いたと説明している。
つまり、湯の峰の温泉は、ただ疲れを取るための湯ではなかった。
観光の途中で入る温泉でもなかった。
熊野へ向かう前に、身体を清める湯だった。
旅の汚れを落とす。
疲労を癒やす。
心を整える。
そして、聖地へ向かう。
温泉が、祈りの前室になっていた。
ここが、湯の峰温泉のすごさである。
温泉は、現代ではどうしても「癒やし」「宿泊」「観光」「絶景」と結びつきやすい。
もちろん、それも温泉文化の大事な一部である。
でも、湯の峰温泉では、温泉が信仰と結びついていた。
熊野詣の人々は、湯に入ることで、聖地へ向かう身体と心を準備した。
和歌山県世界遺産センターの登録資産目録でも、湯峯温泉は「熊野本宮大社近くにある湯垢離の場」と説明されている。
この一文は、かなり重い。
湯の峰温泉は、単なる古い温泉地ではない。
熊野信仰の動線の中にある温泉地なのだ。
つぼ湯は、いまも入浴できる
湯の峰温泉の中でも、特に有名なのが「つぼ湯」である。
小さな岩風呂のような公衆浴場で、湯の谷川沿いにある。
現在も入浴施設として案内されており、熊野本宮観光協会や和歌山県公式観光サイトでは、30分交代制などで利用できる温泉として紹介されている。
ここで、もう一度言いたい。
これは、見るだけの史跡ではない。
いまも入れる。
もちろん、混雑や営業状況、清掃日、利用方法は公式情報を確認すべきである。
でも、基本的な事実として、つぼ湯は現役の入浴施設として紹介されている。
これが面白い。
世界遺産は、ときに保存の対象になる。
触れてはいけない。
入ってはいけない。
近づきすぎてはいけない。
そういう距離感の場所も多い。
でも、つぼ湯は違う。
正確には、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の文脈にある湯の峰温泉の公衆浴場であり、熊野詣の湯垢離場としての歴史を持つ湯である。
その湯に、いまも入ることができる。
世界遺産を眺めるのではなく、世界遺産の文脈にある湯に入る。
これは、かなり特殊な体験である。
「世界遺産」と「温泉文化」は別物。でも、つながって見える
ここで少し整理しておきたい。
いま進んでいる「温泉文化」のユネスコ無形文化遺産登録を目指す動きと、湯の峰温泉が関わる世界遺産は、同じものではない。
「温泉文化」のほうは、温泉をめぐる社会的慣習や生活文化を対象にする無形文化遺産の話である。
一方、湯の峰温泉が関わるのは、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」である。これは熊野の霊場や参詣道を含む文化遺産であり、湯峯温泉はその構成資産の中で湯垢離の場として位置づけられている。
制度は別物である。
ここを混ぜると、記事が一気に雑になる。
でも、制度が別だから関係ない、という話でもない。
むしろ、別制度だからこそ、湯の峰温泉の面白さが見えてくる。
温泉文化を世界へ出そうという動きがある。
その一方で、和歌山にはすでに、世界遺産の文脈で保護される湯垢離の温泉がある。
温泉を、ただの入浴や観光としてではなく、暮らし、信仰、旅、身体の清めと結びついた文化として見るなら、湯の峰温泉はとても分かりやすい実例である。
温泉に入る。
身体を清める。
熊野へ向かう。
この流れは、温泉文化を抽象的な言葉ではなく、具体的な行為として見せてくれる。
だから、湯の峰温泉は強い。
そして、だからこそ、和歌山はもっと温泉県として語られてよい。
白浜だけでは見えない、和歌山の温泉の深さ
和歌山の温泉と聞くと、白浜温泉を思い浮かべる人は多い。
それは間違っていない。
白浜温泉は、和歌山を代表する温泉地である。
海があり、歴史があり、空港もあり、関西からも首都圏からも入りやすい。
和歌山の温泉の入口として、白浜はとても強い。
でも、白浜だけでは、和歌山の温泉の深さは見えない。
湯の峰温泉を見れば、和歌山の温泉には別の顔があることが分かる。
そこにあるのは、海辺のリゾートではない。
派手な温泉街でもない。
熊野へ向かう前に、湯で身を清めるという文化である。
これは、白浜とはまったく違う温泉の価値である。
和歌山の温泉は、一つの顔では説明しにくい。
白浜は海辺のリゾート。
勝浦は海と洞窟とまぐろ。
龍神は山の美人湯。
川湯は川を掘る温泉。
渡瀬は自然滞在型の大露天風呂。
湯の峰は、熊野詣の湯垢離場。
それぞれが別々の強さを持っている。
だから、和歌山は温泉県として分かりにくい。
でも、分かりにくいから弱いわけではない。
むしろ、濃い。
白浜だけで終わらせるには、あまりにも濃い。
湯の峰温泉は「温泉街」ではなく「聖地の湯場」として見る
全国の有名温泉地と比べると、湯の峰温泉は規模では勝てない。
草津のような大きな湯畑はない。
別府のような源泉数の圧倒はない。
箱根のような総合観光圏でもない。
城崎のような外湯めぐりの温泉街でもない。
黒川のように統一された宿泊エリアでもない。
湯の峰は、小さい。
でも、そこを弱点としてだけ見るのは違う。
湯の峰温泉は、温泉街として見るより、聖地の湯場として見るべき場所である。
熊野本宮大社に近く、熊野詣の前に身を清める湯垢離場として語られてきた。
小さな谷あいの温泉地に、湯筒があり、宿があり、湯けむりがある。
そこに、つぼ湯がある。
派手な温泉街ではないからこそ、湯の峰には「祈りの前の静けさ」が残っている。
これは、観光地としての弱さではなく、湯の峰らしさである。
全国比較の調査でも、湯の峰温泉は「温泉街」ではなく「聖地の湯場」として分類した方が正確だと整理できる。
この見方は、とても大事だ。
湯の峰を草津や城崎の基準で見ると、小さい温泉地になる。
でも、熊野詣と湯垢離の文脈で見ると、他では代えがたい温泉地になる。
評価軸を間違えると、和歌山の温泉は見えなくなる。
湯の峰温泉は、その象徴である。
残念なのは、知られていないこと
湯の峰温泉・つぼ湯の価値は、かなり明確である。
日本最古級の古湯。
熊野詣の湯垢離場。
世界遺産の文脈。
いまも入浴できる公衆浴場。
小さな温泉地に、これだけの要素が重なっている。
普通に考えると、かなり強い。
でも、全国的に「温泉といえば和歌山」と言われるかというと、そうでもない。
白浜温泉は知られている。
でも、湯の峰温泉・つぼ湯まで含めて、和歌山が温泉県として思い出されることは多くない。
ここが残念である。
湯の峰温泉が弱いのではない。
つぼ湯の物語が弱いのでもない。
むしろ、強すぎるくらい強い。
ただ、それが県全体の温泉イメージとして十分に届いていない。
熊野は「世界遺産」として語られる。
熊野古道として語られる。
本宮大社として語られる。
でも、その中にある温泉文化は、意外と見落とされやすい。
湯の峰温泉・つぼ湯は、まさにそこにある。
熊野を歩く人には知られている。
温泉好きには知られている。
でも、和歌山を「温泉県」として思い出す入口には、まだなりきっていない。
残念なのは、湯がないことではない。
ある。
しかも、とても濃い湯がある。
残念なのは、その濃さが、県のイメージとして束ねられていないことだ。
まとめ
湯の峰温泉・つぼ湯は、和歌山の温泉を読み直すうえで、最初に置くべき場所である。
なぜなら、ここには和歌山の温泉の深さが凝縮されているからだ。
古い温泉。
熊野詣。
湯垢離。
世界遺産の文脈。
そして、いまも入浴できる現役の湯。
温泉文化を世界に出そうという時代に、和歌山にはすでに、温泉を文化として語れる場所がある。
ただし、それは雑に「世界遺産の温泉」と言えば済む話ではない。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」と、温泉文化のユネスコ無形文化遺産登録を目指す動きは、別制度である。
「つぼ湯そのものが単独で世界遺産」と書くのも避けたほうがいい。
正確には、湯の峰温泉は熊野詣の湯垢離場として世界遺産の文脈で語られ、その中に現在も入浴できる「つぼ湯」がある。
でも、正確に書いてもなお、十分に面白い。
いや、正確に書くからこそ面白い。
世界遺産を眺めるのではなく、世界遺産の文脈にある湯に入る。
熊野へ向かう人々が身を清めた湯に、いまも入る。
こんな温泉がある県を、白浜だけで語ってしまうのは、やっぱりもったいない。
次回は、視点を広げる。
白浜、勝浦、龍神、川湯、渡瀬、椿、加太。
和歌山の温泉を、海・山・川・巡礼に分けて見ていく。
和歌山の湯は、白浜だけでは終わらない。